なんちゃって人生論【003】あなたは『満員電車』に乗る?乗らない?

乗車率202.5%

山手線外回り上野→御徒町間の朝の通勤(通学)ラッシュ。

観光に来ている外人が思わず「Wow!」とスマホで写真を撮ってしまう東京の朝の観光スポット。

まあね、観光ならいいんですけど、毎日毎日この電車に乗らなくてはいけない身になってみると・・・いやはや辛いものがあるものです。



こんにちは、山本です。

約11年間のサラリーマン生活の内、首都圏で勤務した約9年間はほぼ毎日通勤ラッシュ。

乗車率だけで言えば日本一の上記区間(上野→御徒町)もめでたく通勤経路。

恋愛漫画にありがちな好きな人の急な来客で部屋にあるエロ本を押し入れに押し込む光景に似た感じで、人を電車に押し込む駅員。

人が人でなく、モノとして扱われる現実。

モノとして扱われている人も、他者をモノとして接する。

季節を問わず、距離0cmで接している赤の他人を、人として接していたら気が持たない。

音楽を聞く、スマホに興じる、新聞を読む、寝る・・・・・

ある種の“無の境地”です。

(別にこれが悪いと言いたい訳ではなく、乗車率202.5%の世界はそんな世界なのです)

座れる幸運・・・しかし、、、


そんな“無の境地”にも幸運というのが極稀に巡ってきます。

そう、着座のチケットが巡ってくるのです。

ドア付近ではほぼ巡ってこないチケット。

座席の目の前、吊り革付近に立っている人のみが手にすることができるラッキーチケット。

目的地までは数分かもしれない。

でもその数分でも、この“無の境地”から脱出できるのだから、それはもう涅槃とも言える境地。

ある日、そんな境地が僕にも巡ってきました。



西日暮里。

乗り換えで目の前に座っていた女性が席を立ちました。

「おおー座れる、今日はなんて運がいいんだ」

と喜んでいたのものつかの間、僕はあることに気づきました。

「あっここは優先席じゃないか」

でもって、ふと左に目をやるとマタニティマークを付けた女性が。

「この女性が座りたいのかどうかはわからないけど(すぐ降りるかもしれないし)、優先席だし僕が座るべきじゃないよね・・・」

なんて考えていたら、右隣から僕を押しのけ割り込むように座る男性が。

一瞬の隙をついてゴールを決めるサッカーの如く、僕と女性の間を強引に割って入ってゴールです。

「いやはや・・・なんとも・・・」

そりゃイラつきはしましたけど、“無の境地”ではこんなこと日常茶飯毎。

イラついた方が損なのです。

この男性に対して道徳的にあーだこーだ言うことは出来るかもしれませんが、我々がいる環境は道徳という概念がすっかり消え失せた世界です。

この男性が絶対に悪いとも言えない。

だって“無の境地”では、人が人でなくなるのだから。

他者は自分の鏡


その後、僕はその男性をぼーっと眺めていました。

よくは覚えてはいないけど「この人どんな人なんだろ?」とか「結婚とかしてるのかな?」とか「スーツがヨレヨレだな」とか、そんないつもの人間観察に興じていたと思うのですが、ふとその男性の寝顔を見て僕は震撼してしまいました。

「なんでこんなに苦しそうなのか・・・」

“無の境地”から脱出できるゴールデンチケット涅槃。

それはそれは誰しもが手にしたいもの。

それを手に入れたラッキーボーイ。

好きな人に告白してOKされたときのような顔で寝ていると思いきや(それは言い過ぎかな・・・)、眉間に皺を寄せ、ずーっと苦悶の表情です。

僕は、そんな彼の表情を見るだけで心が苦しくなり、ふと窓ガラスに映る自分の姿を見てしまいました。



・・・なぜ、苦しくなったのかって?

「もしかしたら、僕も同じような顔をしているのかもしれない。。。」

って思ったから。



さて。

今まで冗談半分面白可笑しくお伝えしましたが、高々数分間座れたからといって幸せかどうかはわかりません。

でもあの窮屈で非人道的で悪臭漂う空間から少しでも解放されるのですから、立ってもみくちゃにされている状態に比べたら少しは“マシ”なはずです。

なのに、彼の表情は苦しそう。

もうね、彼にとって何が幸せなのか僕には理解できる気がしなかった。

そう、まるで彼を“モノ”のように感じてしまったんだ。

人間は環境によって善くも悪くもなる。


不良が多い地域の中学校に進学すると不良になる確率が高くなります。

ですよね?

スラム街を歩くのと、高級住宅街を歩くのでは、スリや強盗にあう確率はスラム街の方が高いです。

ですよね?



僕らは生まれてからずーっと自分というものがあって、(人によって感覚の深浅はあるとは思うけど)自分の意志で、自分の考えで、自分の人生を歩んでいると思って生きている。

もしかしたら「私は今まで何も決めたことがありません。全て親の言いつけ通りに生きてきました」なんて人もいるかもしれないけれど、100%傀儡人生を送って生きている人ってのはこの世界にはいないと僕は考えています。

だって、100%傀儡人生ってそりゃもうロボットですからね。

食事だって、トイレだって、命令がないとしないことになるから。

故に、選択の範囲は人によって環境によって違いはあれど、



・僕らは常に複数の選択肢から決断を強いられて生きている



と言える。

そう考えると、毎日通勤ラッシュにもみくちゃにされるのだって自分の決断なんだ。

「会社が都心にあるんだから仕方ないじゃないか」

と、えなり君ばりに困った顔で反論する人がいるとしても、朝1時間早く家を出る決断だってできるし、満員電車に乗らなくてすむ所に引っ越すという決断だって、もっと言えば、会社を辞める決断だってできる。

つまり僕らには、常に無限とも言える(感じられる)選択肢が目の前に用意されている。

その中から、満員電車に乗るという決断をし、そう決断した環境は、人を“モノ”として扱う環境であり、そんな環境にいる自分もいつの間にか“モノ”となっている。

他者を“モノ”と接する環境、他者を“モノ”として見てしまう自分、、、

誰のせいでもない、自分で選んで決めたことなんだ。



これに気づけるだけで、例え今までと同じ生活をしていようとも、見える世界が180度変わります。

なぜなら、決断はあなたにしか出来ないことだし、人生をコントロールするには決断なしにはできないことだから。

満員電車に乗る。

「無意識的に乗る」と「決断して乗る」には天と地ほどの差があることは、もうわかっていただけますよね?

さあ、遅くはありません。

「今」から、気づいたときだけでもいいので、あなた自身で決断する意識を持ってみて下さいな。



ではでは、ここまでお読み頂きありがとうございました。

またよろしくお願いします。

山本

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