新しい自分があるという錯覚

昨日、FB上で馬上 ムツネグさんと
こんなやり取りをさせて頂きました。

(コミュニケーションって何なんでしょうか?
 という僕からの問いに)

馬上さん:
「共感の追求と他者との違いで
 自分を浮き彫りにする手段だと思います。」

山本:
「自分を浮き彫りにする手段かぁ。
 情動的共感からの認知的共感って感じなんですかねぇ?
 確かにコミュニケーションによって
 新しい自分ってのわかったりしますもんね!」

馬上さん:
「新しいというか。再発見ですかね。
 既にそこにあるわけなんで。」
「灯台もとくらしですね。
 他人は自分を写す鏡でもあります^_^」

ーーーーー(ここまで)ーーーーー



「既にそこにある」

ズバッときましたね。

無意識的に「新しい自分」って書き込んでいました。

新しい自分なんてどこにもいないのに・・・



2006年くらいだったでしょうか。

僕はとあるアフィリエイト塾に入りました。

アフィリで頭金を貯めて、そのお金をもとに
不動産投資をしてセミリタイアを!なんて考えていました。

アフィリの収入は月5万から20万くらい。

サラリーマンの給料プラスアルファでしたので、
少しだけ生活にゆとりが出てきました。

ただいつもの自分となんら変わりはありません。

不遜で生意気で世の中なめきっていた20代。

新しい自分がどこかにあると錯覚しながらアフィリをしていた。



新しい自分がある、は今の自分を否定すること。

否定するのは間違いじゃなかった。

僕が間違えたのは、否定する方向。

外にじゃなくて、内への否定が必要だったんだと思う。

馬上さんで言う「既にそこにある」のだから。



僕の文章を読んで
「つまんねーなあ、どこかで聞いたことある話ばっかりしやがって」
と思われたなら、それは僕はまだ外に「新しい自分」があると思って
書いているということだ。

本質は自分の中に既にある。

それを山本和広として腑に落とせたとき、
僕の文章はユニークなものになるのだと思う。



僕の好きな漫画に『ジョジョの奇妙な冒険』というものがある。

作者の荒木 飛呂彦先生はこんなことを語っていた。



「マンガ編集者は普通、お昼すぎから出勤する。
 20数年前、ぼくが原稿を集英社に
 持ち込んだのは午前中だった。
 だが、たまたまひとりだけ出勤していて、
 その人に原稿を見てもらった。
 彼は『ジョジョ』の初代編集者であり、
 彼の意見と影響は、あまりにも大きい。
 午後に行っていれば、きっと違う編集者で、
 その人の影響を受け、違う作品になっただろう。
 
 「運命」は偶然ではなく理由がある。
 『ジョジョ』の中では、この考え方をとる。
 科学的には証明できないかもしれないが、
 感覚がそうだと言っているのだから。」

(ジョジョの奇妙な冒険『ストーンオーシャン』16巻 カバーコメントより)



僕がジョジョを好きな理由は「本質」を感じるからだ。

25年の連載を普遍的と言っていいのかはわからないが、
長期間連載という事実を考えるとジョジョには
本質があると言ってもよいと僕は思っている。

そして、その本質を荒木 飛呂彦という人は
『ジョジョ』で表現しているのだ。



僕が最近ご紹介している「東方の賢者ワイズマン」。

僕は、彼からも本質を感じている。

もちろん、ジョジョにしたって、ワイズマンにしたって、
人によって好き嫌い・合う合わないがあるのは当然だ。

だからと言って、
あなたに必要か必要じゃないかを僕は決められない。

決めるのはあなたにしかできないのだから。



新しい自分は既にある。

バシッと言ってくれた馬上さんに感謝です。

ここまでありがとうございました。

山本



新しい自分があるという錯覚

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