祖父の日記

こんにちは、山本です。

「こんな生活をあと30年も続けられない・・・」

サラリーマン=ルーティンワークと捉えていた僕は、
毎日こんなことばかり考えていました。

朝礼から始まり、客先アポ、提案資料作成、見積作成、
在庫・納品確認、売上げ処理、週末は週報、月末は会議資料作成・・・

そこには何の希望もなく傀儡的な生き方しかない、、、



でもね、ほんとにそうだったのでしょうか?

だってよくよく考えたら、人生ってルーティンじゃないですか?

朝起きて夜寝るし、ご飯食べて排泄するし、喜んだと思ったら悲しむし、
病気と健康を繰り返すし、最終的には死ぬし。

これらをするのに、何か特別な才能などは必要なく
決まったことをしているだけ。

まさにルーティン。。。

そんなルーティンに意味なんてあるのでしょうかね。



「隣の芝生は青く見える」って誰もが知っている諺だけど、これって
「自分の芝生は青くあるべきだ」という前提ありきですよね。

でも自分の芝生が青いってどうやったらわかるのでしょうか。

他人が「君の芝生は青くていいね」と教えてくれるのでしょうか。

仮に教えてくれたとしても、果たしてそれを実感できるのでしょうか。



僕の父方の祖父は毎日大学ノートに日記を書いていました。

虫眼鏡を使わなくては読めないくらいの小さな字で書き続けた日記を、
多分50年以上は続けていたと思います。

101歳まで生きた祖父のあの日記が今はどこにあるのか知りません。

もしかしたら捨てられているかもしれません。

そんな身内ですら気にしない日記を祖父はずーっと書き続けていたわけですが、
祖父は日記を書くことに何かを求めていたのか。



僕らは結果を求められます。

そして、その結果に対して何かしらの報酬が与えられる。

テストでいい点を取ったからほめてもらえる、
9時から18時まで勤務したから給料がもらえる。

別にこれが悪いことだとは思いませんが、ただ一つ言えることは、
他人が求める結果と自分が求める結果を混同しないことです。



自分が自分の行為に結果を求めた瞬間にやめてしまうから。



祖父は「読んでもらため」を自身に求めていたら、
きっと書き続けなかったと思います。

結果を求めないから、朝起きて夜寝て、ご飯食べて排泄する
というルーティンが現れる。

現実ってのはこんなことなのではないでしょうか。

ここまでありがとうございました。

山本

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