「あなたはどこにいますか?」

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。

 それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。

 「あなたは、どこにいるのか。」

 (創世記 第3章 8節、9節)





善悪の知識の木の実を食べてしまったアダムとイブ。

自らが裸だということを知り恐れ隠れていたアダムへの最初の問いかけ。

「あなたは、どこにいるのか。」





こんにちは、山本です。

有神論者でも、無神論者でも構いません。

日々の生活で「あなたは、どこにいるのか。」と
問われている意識を持つことは大切です。

それは自分への規律に繋がるから。

授業が自習になったときほとんどの学生が遊び呆けるように、
人は秩序がないところでは怠惰を貪ります。

親や先生の圧力がある(であろう)学生ならまだしも、
自立(自律)が前提の大人がこれでは、その怠惰のツケは
最終的に自分に回ってくるわけです。

では誰かに頼むか?

幸運にもメンター的な存在に出会えた人ならそれでもよいかもしれません。

ただ、メンターが24時間365日そばにいることはありません。

結局は、自分自身で律していくしかないわけです。



規律がないところに僕らが目指す先はありません。

「ちょっとくらいなら」「明日でいいや」は、浮標人生へと繋がります。

地に足がついていない人生は、細い幹で膨大な枝を支える木と同じ。

そよ風くらいで倒れてしまう。

逆に幹がしっかりしている木は安定するし、安心感もある、
もっと言えば美しさを感じる。

健全に森林を育てるためには間伐が必要ですが、規律もこれと同じ。

易きは自然と眼前に現れます。

現れますが自己規律によって無視することで、より強く・
美しい人生へと繋がっていく。

実在する人物でも、架空の人物でも構わない、
地に足を着いた人生を生きている人はかっこいい。

そういった人生を生きるべく「あなたは、どこにいるのか。」と
問われている意識を持つべきなのです。



アダムとイブは神からの言いつけを守れなかったので身を隠しました。

後ろめたいことがあるとき人は周りの視線が気になるのです。

逆を言えば後ろめたいことがなければ堂々としていられる。

常に「あなたは、どこにいるのか。」と自分自身に問い続ける意識を
持ってみて下さい。

やっていること、言っていることに「かっこいい」と思えるのか?

これが規律の判断基準です。

自らの問いに「私はここにいます!」と一刹那の疑いもなく答えられるよう
規律を意識する。

明日からの2014年の指針下地として頂ければと思います。



最後に、アントニオ猪木が引退時に引用した清沢 哲夫の「道」を
2013年のラストメッセージとしてお届けします。



「道」

 此の道を行けば どうなるのかと
 危ぶむなかれ 危ぶめば 道はなし

 ふみ出せば その一足が 道となる 
 その一足が 道である
 わからなくても 歩いて行け 行けば わかるよ



今年一年ありがとうございました。

よいお年をお迎え下さい。

山本

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