隷属への道 ~第二章 偉大なユートピア~
隷属への道
著者:F・A・ハイエク
訳者:西山 千明
発行:春秋社
-隷属への道 目次-
- 第一章 見捨てられた道
- 第二章 偉大なユートピア
- 第三章 個人主義と集産主義
- 第四章 計画の「不可避性」
- 第五章 計画化と民主主義
- 第六章 計画化と「法の支配」
- 第七章 経済統制と全体主義
- 第八章 誰が、誰を?
- 第九章 保障と自由
- 第十章 なぜ最悪の者が指導者となるのか
- 第十一章 真実の終わり
- 第十二章 ナチズムの基礎としての社会主義
- 第十三章 われわれの中の全体主義者
- 第十四章 物質的条件と道徳的理想
- 第十五章 国際秩序の今後の展望
こんにちは。
山本です。
今年は花粉の飛散量が少ないようで例年に比べ快適な日常を過ごせております。
鼻が詰まると思考力90%ダウンくらいになりますからね。鼻にティッシュを詰めながらこの原稿を書かないでいられる事に感謝しつつ、本日の読書考察いってみましょう!
1.要約
【第二章 偉大なユートピア 要約】
社会主義が主張する「新しい自由」の内実は、富の平等分配を意味し、また同主義はファシズムと同根であり自由とは結びつける事はできないのだが、多くの進歩主義者はその本質を理解できず受け入れ、自由とは正反対の結果、つまり隷属への道を進みつつある。
2.日本は世界で最も成功した社会主義国家!?
僕らは民主主義社会と言われている国に生まれ、そして育ち、そこに対しては別段疑いもなく日々を過ごしているかとは思いますが、ちょっと視点を変えてみるだけで、ドキッと気付かされる事が多々あります。
例えば、
民主主義は個人が享受できる自由の範囲を拡大させていくのに対し、社会主義はその範囲を狭めていくものでしかない。民主主義は一人一人の人たちすべてを、それぞれかけがえのない存在であるとしてこれに最高の価値を付与するが、これに反して社会主義は、各個人を単なる「将棋の駒」、あるいは「数字」としか見なさない。民主主義と社会主義とがただ一つ共通して持っているのは、「平等」という言葉である。だが、この同一の言葉を使用するに際して、両者間に歴然として存在する相異には注意しなければならない。すなわち、民主主義は自由において平等を求めようとするのに対して、社会主義は統制と隷属において平等を達成しようとしている、という相違である。
(第二章 偉大なユートピア P.25 ド・トクヴィルの主張引用を抜粋)
思い当たる節ありません?
そして、
より豊かな生活を目ざすつもりでしたことが、実際にはそのより豊かな生活を自ら放棄するのを余儀なくさせてしまう、という教訓である。つまり、組織化された指令が増えれば増えるほど、各自の持っていた多様な目的は画一化への道をたどるのを、どうにも避けることができなくてなってしまう、ということだ。
(第二章 偉大なユートピア P.30 ウォルター・リップマン博士の引用を一部抜粋)
ついつい頷きたくなりませんか?
僕らが生きている日常は非常に生きにくい世界なのかもしれません。
それはグレゴリー・ベイトソンのダブルバインドじゃないですけど、普段言われるメッセージと場のメッセージがあまりに違うし、その環境から抜け出せない状況があるため、僕らは今の世界を生きにくいと感じる訳です。
まとめると、
- 民主主義社会といわれているが
- 実際の生活は社会主義に近く
- その生活から抜け出せない状況に自分がいる。
もっと具体的に言えば、
- 自分らしく自由に生きるべき、と世の中では言われているが
- ノルマがあり、制約も山ほどあり、その上、人として扱われず
- だけど、家族もいるし、ローンもあるし、今の生活を維持しなくてはいけない
って感じでしょうか。そりゃなかなかどうして生きにくいですよ。
じゃどうすればよいのか?
僕らは今何をすべきなのでしょうか?
こういった問いを立てた際、避けて通れないのは、
- 生きる
ということと、
- 死
ということに関してです。僕らには必ず「死」が訪れます。自ら「死」を選択している人が年3万人以上いる事実はありますが、少なからず今のあなたは「生きている」わけです。つまり
死を選択せず、生を選択している訳です。
じゃ仮に、あなたの現状が今よりより悪くなった場合はどうでしょうか。
具体的には、仕事が無くなるとか、彼女に振られるとか、人間関係に悩んだりとか、数え上げたらキリがありませんが、あなたが「こうなったら嫌だなぁ」と思うような状況になった場合です。
ただこういう事を考えたり、実際にそういった状況になった場合、「死」を選択する人もでてくるかもしれません。自殺という問題はまた別の視点での考察が必要ですので、今は割愛しますが、僕が今ここで問いたいのは、
- 良いも悪いもその結果には必ず行動があり、その行動には必ず目的がある。ではその目的は何なのか?
ということです。
例えば上記の「仕事が無くなった」という例で言えば、仕事するという行動にはなにかしらの目的があるはずです。
それは、高次な目的(自己実現的な)でも、低次な目的(お金が欲しい的な)でも何でもよいのですが、何かしらがあるはずです。
ただ僕らは一人一人違うため、目的も多種多様かとは思います。そういった時は具体的なレベルで考えると何から手をつけてよいのかわからなくなるので、抽象度を上げて考えてみましょう。こういう時、叡智は僕らに光を与えてくれます。
アリストテレスはこんな事を言っていました。
いかなる技術、いかなる研究も、同じくまた、いかなる実践や選択も、ことごとく何かしらの善(アガトン)を希求していると考えられる。
(アリストテレス「二コマコス倫理学」)
つまり、僕らは「より善いもの」を求めるからこそ、何かしらの行動をとるわけです。
例えその行動の結果が今より悪くなったとしてもです。
(より善いものを求めて行動したとしても、結果、悪くなってしまうという事は往々にしてあるわけですから)
ただここで僕らの行動は、必ず環境とセットということを忘れてはいけません。
仕事をするのであれば、会社という環境があり、社会という環境があり、国という環境があるという事です。
ではここで環境側の視点に立って僕らの行動について考えてみましょう。
僕らの行動は環境とセットなのですから、環境側からしてみたら、
- 僕らの行動を許している
ということになるかと思います。会社という環境がその環境で仕事をする僕らを許してくれているわけです。
この視点を得たいま、僕らがやるべきことは、
- 「いま」を懸命に生きる
という事しかないと僕は考えます。
僕らは多くの場合、食べるものにも、着るものにも、住むところにも困らない恵まれた環境で育っているため、「生きる」ことが当たり前となりすぎているのかもしれません。
世界を見渡せば、今日生きれるかどうかの人たちが多くいるという事実はあなたも既知の事だと思います。
そんな時代の中、幸運にも世界トップレベルに裕福で恵まれた国に育って、生きることを許されているのに「いま」を懸命に生きないのは環境に対して失礼だと思いませんか?
上述の通り今の日本は生きにくいのかもしれません。ただあなたには無限の可能性を秘めた生きることを許してくれている環境があるわけです。
つらい事や、思い通りにいかないこと、腹の立つことなどたくさんあるかと思います。
だからといって腐らずに「いま」をあなたができる範囲で懸命に生きることが、「いま」の僕らがすべき唯一の事なのではないでしょうか。
とは言っても何も高尚な事である必要はなくて、例えば日曜日いつも昼まで寝てしまっているなら、少し早く起きて家族に、近所の人に、朝食を買うコンビニの店員さんに「おはよう」と挨拶するだけでもよいと思うのです。
ご飯を作ってくれる人がいるなら「ありがとう」と一言。
外食したのであればお店の人に「ごちそうさま」と一言。
そんなちょっとした目的・行動がほんの少しでもあなた自身とあなたの周りをより善くできるのであれば、それがあなたらしく生きる事に少しずつ繋がっていくのではないでしょうか。
以上が先ほどの「僕らはどうすればよいのか?」の問いに対する、僕の考えであり、いまあなたに伝えたいことです。
最後だけ聞くとふわふわした感じの内容となってしまっておりますが、あなたの現況に落とし込みご理解いただけたら幸いです。
拙い文章でしたが、本日の読書考察はここまでです。
目が疲れたかと思いますが、読んでいただきありがとうございました。
また次の記事でお会いできること楽しみにしております!
2012年5月1日
山本 和広
読書考察
- 生きにくい世界かもしれないが「懸命に生きること」こそ、僕らが「いま」すべき事である。