ヤリマンの主張



「人間は、動物と超人とのあいだにかけ渡された
 一本の綱である。」(ニーチェ)



こんばんは、山本です。

あるBSの番組で不特定多数の男性と
性交渉を行う女性(通称『ヤリマン』)は、
是か非かという内容でディスカッションを
していました。

所詮テレビなのでどこまでが事実でどこからが
虚実なのかはわかりませんが、

10名程の女性が顔出しで登場し、自身の主張を
あれやこれやと述べる述べる。

経験人数100人以上は当たり前、中には20代
そこそこで1000人以上という超人もいましたが、

「わたしヤリマンです」と顔出しでテレビに
出ちゃうくらいだから、あー言えば上祐的な感じで、
何を言っても自分達の行為は間違っていないと自信満々。

「通常、セックスにおいて女性は受身。
 女性が主体的なセックスをすることは、
 男尊女卑社会への抗議運動」

「マスターベーションは身体のみの快楽。
 セックスは人の温もりが感じられる快楽。
 でも心と身体は別ものです」

「自分が尊敬できる人とじゃないとやらない」

「ニーズがある以上、それには答えてあげたい」

「リスクがあることは承知している。
 それをわかった上でのヤリマン」

と、ディスカッションと言うよりは、
意見の言いっぱなし感が強い番組でしたが、

そんな中、ある一人の女性がこんなことを
言っていました。

「欲望を抑える意味がわからない。

 私にとって不特定多数の男性との性交渉は、
 たまにはジャンクフードを、たまには高級中華を
 ってのと同じ。

 そこには優劣もないし順位付けもない。」

性に対してオープンな女性

あまり詳しくはないので間違っているかもしれませんが、
江戸時代あたりの漁村、農村とかでは乱交が当たり前で、

村には誰が親だかわからない子が沢山いて、それを見た
外来は「なんて野蛮な国だ」という印象を受けたそうです。

明治時代の盆踊りでは乱交騒ぎが警察沙汰に
なるくらいでしたから、まだそういう風潮は
残っていたのでしょう(盆踊りは宗教行事なので
根幹は違うかもしれませんが・・・)。

でも次第に時代が進むにつれ女性に淑女的な姿を
求める世の中になっていくような気がします。

そんな時代を経た今「時代は螺旋的に発展する」なんて
言われていますので、性に対してオープンな女性が
多くなっているのはもしかしたら必然的な流れなのかも
しれません。



「わたしはヤリマンです」

それが善いのか悪いのか、僕には正直わかりません。

でもね、先程の女性のコメントにあった

「欲望を抑える意味がわからない」

と言う点はちょっと引っかかる。

「なんで人を殺したらいけないの?」

先程の女性が、仮に子供からこんな質問を
されたらどう答えるんですかね?

「法律で禁止されているし、人を殺したら
 刑務所に入れられちゃうよ」

「でも殺したいの」

「殺したら殺された人の家族が悲しむでしょ?」

「うんわかるよ、でも殺したくてしょうがないの」

「君のお母さんが殺されたらどうする?
 それでも殺したいの?」

「お母さんが殺されたら悲しくて仕方ないし、きっと
 犯人を凄く恨むけど、でも人を殺したいという
 欲望を抑えられないんだよ」



・・・・・これと同じような気がするんですけど
あなたはどう思います?

ジャンクフードを食べないストレスを抱えるより、
欲望(本能)の赴くままに、たった一度の人生だから、

と彼女達は主張していましたが、それは構造的には
「人を殺してもよい」「盗みをしてもよい」と同じ
ではないでしょうか?



人間と動物とを分かつものに「理性」がよくあげられます。

理性には限界があるとか、理性は合理的な判断ができないとか、
諸説あるかもしれませんが、彼女達の発言を聞いていると、
人間というよりは動物に近いのかなあという印象を受けます。

もちろん、これは女性に限った話ではなく、男性にも
当てはまる訳で。

もし「欲望(本能)のままに」という人達が多くいる社会なら、
それはより動物的な社会になりつつあるのかもしれませんね。

「民度が低い」とも換言できるかな?



ここまでありがとうございました。

また明日。

山本



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