繋がりと苦しみ

「愛美は、このクラスの生徒に殺されたんです。」

久しぶりに再観しました。
http://youtu.be/ZsOmp4-f2Tc

4年前になるんですね。

当時、この映画を観て心がざわつきました。

んーなんて言うですかね・・・

不気味さ。

僕が小学校の高学年くらいからでしょうか、
理解不能でただただ不気味さだけを社会に残す事件が多発しだしたのは。

これらの事件と同様の不気味さをこの映画からも感じた。

当時、僕が通っている美容室のアシスタントとこの映画の話をしていたとき
「私の学校もこんな感じでしたよ」って真顔で言われ、フィクションと
ノンフィクションの狭間で苦笑いをしたのを思い出します。



・・・・・繋がり。

最近、FacebookやTwitterをやるようになって感じたこと、それは、



・世界が閉じていく感覚



繋がりをもった人達の情報がどんどん更新されていく。
その更新にはある種の中毒性があると思う。

だって気になって見ちゃうから。

ネットは世界を広げるツールという認識だったが、
ふと自分のネットライフを思い返すと、
逆に閉じこもっていることに気がつく。

お気に入りに登録されたサイト、YouTubeでレコメンドされた動画、
SNSで紹介されたサイト・・・

もちろん、無限と言い換えられるのがネットの世界ですから、
アクセスする情報は必然的に有限になりますよ、なりますけれど、
その有限があまりにも狭まっている。

グローバル化のパラドックスですね、正しく。



あくまで僕の印象だが、ここ最近は不気味な事件はそこまで多くない。

エンターテイメント業界を見ても、
『告白』のような映画はないように思える。

これは、繋がりがもたらした影響だと個人的には思う。

生存・安全・社会・承認が当然のように満たされた僕らは、
必然的に自分という存在を問わずにはいられない。

「自分ってなんなんだろう?」と。

わかるわけがない。わかった人がいるなら教えて欲しい。

だけど、僕らは「答え」がない状況に耐えれない。

そんな時代のピークが、あの不気味な時代だったのではないか。



そんな不気味さを薄めてくれるのが、他者の存在。

他者がいて初めて自分の存在を確認できる。

依存が当たり前の時代なのかもしれない。



そんな時代に個を強烈にアピールしている人達がいる。

ユーチューバーとかはよい例ではないだろうか。

彼らは、個と繋がりを上手く利用していると感じる。

会社に勤めていたときよく聞いた
「(Facebook上で)会社の人とは繋がりたくない」
って言う人にはできないことだと思う。

人はそんなに器用に出来ていない。

ペルソナをいくつも持つのは疲れちゃうよ。



今流行の繋がりに本質はないと思う。

本質があってこそ活きるのが繋がりだから。

クラスにいたでしょ?

楽しい奴には自然と輪ができる。

じゃ楽しい奴って?

・・・・・「苦しんでいる人」じゃないかな?



ここまでありがとうございました。

山本



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