規範と自由
こんにちは。
山本です。
先日、父親が海上自衛隊である女性と話をする機会がありました。
その女性の父親は職業柄かなり厳格方だったらしく、幼少期に於ける規律を守ることを強いられる生活が非常に苦痛だった、と仰っていました。ただ、そんな会話の中でその女性が一言こんな事を呟きました。
「今の時代自由であることが正とされがちだけど、規律の中にも大切なものがある」
自由
僕らが普段何気なく使用するこの言葉。普段何気なく使用しているからこそ気にもしないのだけど、実は「自由」について考えることは非常に難しい。自由という言葉は抽象度がかなり高いものなので、一意に決まらないということもありますが、そもそも「自由って何?」という質問に的確に答えられる人はほとんどいないと思います。
僕も身に覚えが少しはあるので偉そうに言えた義理ではありませんが、学生時代は自由を履き違えやすいものです。今日も電車に乗っていたらどこかの男子高校生が普通に携帯電話で電話してましたからね。それもかかってきた電話に出たのではなく、自ら電話をかけてまで。
規範なくして自由は語れない
僕らは社会に属して生きている動物です。家族という社会、学校という社会、会社という社会、自治体という社会、日本という社会、世界という社会、その社会は様々かとは思いますが、少なくてもどこかの社会には属して生きています。
そんな社会があってこそ、僕らの自由は守られているということを忘れてはいけません。
もしその社会が要求する規範を受け入れたくないのであれば、その社会を脱するしかありません。もし社会には属していたいが、規範は受け入れたくない、というのは単なるわがままであるばかりか、その社会全体の規範を壊し、レベルを低下させる事態を招きます。
スペインの哲学者オルテガは、
野蛮であるところに文化は生まれない
と言っていました。ここでいう「野蛮」とは、規範を軽視して好き勝手やっている状態のことを指しています。
「大震災でも日本国民は秩序や礼節を保つ」
と世界から賞賛されたニュースも記憶に新しいと思いますが、確かに日本国民は非常に優秀だと思います。ただ、その全体レベルは下がりつつあると僕は感じています。
先ほどの男子高校生の例じゃないですけど、いい年ぶっこいた大人でも「えっ!?」と思うような言動、態度、行動を最近ほんと多く見かけます。
自分さえよければいい
これでは文化は育ちませんし、その文化に属しているその人自身得はしないわけです。
自分よし世間よし
こんな社会を目指す為に、一人一人が規範を蔑ろにしないことが重要だと僕は考えます。
山本 和広